寺院作法

メモ風なまとめです このページはまだ完成していませんが、記述に誤りはありません(今後も充実させていきますのでよろしくお願いします)


◎寺院の山門に入る前に、諸縁を放捨します  スマホや携帯電話を機内モードやマナーモードにします


◎広域な寺院の場合、寺院の山門の外でタクシーを降りるのが正式  寺院に対する敬意の表現です  荷物が多いとかお年寄りがいるとかの場合でしたら、無理はしなくても良いでしょう


◎挨拶(境内で寺院関係者への)  山内で出会う人は、和尚さんであろうが、作業している人であろうが、挨拶をします 黙って頭を下げます、こんにちはを言います


◎まず、本堂の前で、合掌低頭(ていず=お辞儀をすること)してから、入り口に向かいます
お寺によっては、本堂から入る場合もあります


◎東司(とうす=トイレ)は丁寧に綺麗に使用します(特に男子小用)  節電 タオルペーパーも使わずに自分のハンカチで手を拭きます


◎道場に入れば挨拶不要、自己紹介不要です、坐禅会の参禅者同士は挨拶は不要だからです


◎スマホを切ります、時計も外します  坐禅の場合は、靴下も脱ぎます


◎定められた行事のスケジュールに遅れないようにします


◎お寺の中は走りません  急いでいても走らないようにします


◎お寺の中では、修行に来ていなくても、世間話をしません 知り合いに出会っても寺院の中では世間話はしないように努めます


◎老師や和尚さん・指導者のお話・説明で不明な点があれば、遠慮なくその場で質問をして疑問を解決します


◎使用後は、原状回復をします


◎自分の出したごみは持ち帰ります




お寺のお坊さん(僧侶)の呼び方

一つの寺院に一人のお坊さんがいるわけではありません

「住職」:寺院の管理人、宗教法人の代表役員  「ご住職」と呼びかける
「方丈 ほうじょう」 さん  ご住職より柔らかい呼び名  「方丈 ほうじょうさん」と呼びかける
昔は本堂の須弥壇裏の一丈四方の狭い場所が住職の居所だったので、方丈と呼ぶわけです
ちなみに原則本堂は南に向いていますので、須弥壇の裏側は北に面していて、湿気るし、寒い場所です

年輩の方の僧侶が住職とは限らないです

寺院にいる住職以外のお坊さんは、
和尚さん
で良いと思います。
元来和尚とは、教師 という意味ですので、和尚さんは先生さんと呼ぶのと同じで、さん は不要ですが、在家の人が呼ぶ場合は、さん付けしたほうが良いです。
ちなみに、住職同士の集まりなどでは、姓で呼ぶ代わりに、◯◯寺さん と寺院名にさんを付けて呼びかけます

和尚 は 法階 なので、和尚 になっていない僧侶もいるとは思いますが、おしょうさん で良いです。
関西や福井では、おしょうさん と同じ意味で「おっさん」と呼びかけます  アクセントは「お」にありますので、いわゆる「おっさん」とは異なるアクセントです

住職かどうか分からない場合は、ご住職と言わずに「和尚さん」
そのお寺にたくさん僧侶がいる場合、姓を知っているならその姓で◯◯さんとか呼んでも良いですし、
諱(いみな 得度した時にいただく戒名)を知っているなら、諱で◯◯さんと呼んでも良いですが、
諱で呼ぶのは、若い僧侶以外は避けたほうが無難です。

副住職がいる場合もあります  「副住さん」と呼びます。


「老師」:仏道の指導ができる和尚  そこの住職かどうかは問わない  師家(しけ)とも言う
ただ最近は尊称として老師が乱発されている傾向はある

「東堂老師(とうどうろうし)」:その寺の住職は引退した老師
  


専門僧堂の禅堂の中には、四隅に
「堂頭老師 どうちょうろうし」
「西堂老師 せいどうろうし」
「後堂老師 ごどうろうし」
「単頭老師 たんとうろうし」
がいます(下図参照)

専門僧堂ではないが、一般寺院で結制(けっせい)が布かれるときにも、
このような老師が役割として存在し、法縁や近隣の寺院の和尚がその役を司ります


修行僧のトップで堂頭老師のすぐ横に坐っている僧侶を「首座しゅそ」と言います(上図参照)
昔の中国などの禅宗の語録などで、首座が登場しますが、当時は、師家に代わって法を説くことのできる力量のある者が首座となりました
首座は、当然開悟している修行僧です

現在の専門僧堂では、みんな資格をとる必要があるので、首座は道場の修行僧が順番になります  首座を経験しないと和尚になれません
その法戦式のことを首座法戦式(しゅそほっせんしき)と言います
なお、得度の弟子が首座になると、師匠である和尚は、「和尚」から「大和尚」に法階が上がります 宗門での位の話です。
大和尚になると、緋の衣つまり赤い衣が着用できます。


ちなみに、和尚おしょう というのも、元来、人の指導者である僧侶という意味でしたが、ある程度の修行をすると皆和尚と呼ぶようになったので、
明治以降は、老師という呼称が出現しました
中国で禅が盛んだったころの、百丈懐海禅師にしても、黄檗希運禅師にしても、臨済義玄禅師にしても、
それぞれ百丈和尚などのように「和尚」と呼ばれています。老師という言い方は当時ありません。

老師は現代中国では、先生という意味です 学校の陳先生は、陳老師 です


禅師ぜんじ:曹洞宗では、二大本山の永平寺貫主・総持寺貫主、曹洞宗管長を務めた僧侶を禅師と呼びます つまり宗門の一番の出世頭
立候補した候補の中から選挙にて選出されます
宗教組織というヒエラルキーの中で、1番立身出世を遂げた階級です。

良寛和尚は、永平寺のことなど眼中になく、一緒に修行した仲間が永平寺の禅師様つまり宗門のトップに出世したこともありましたが、
近くを通っても挨拶にも行かなかったようです。衣も一生破れ衣だったようです。
臨済宗を再興したとされる江戸時代の白隠和尚は、妙心寺の法階などには目もくれなかったので、法階は低く、黒い衣しか着る資格がなかったようですが、
本人はそんなことに一切頓着しなかったようです。
そのため、本山妙心寺に登って説法を頼まれても、法階が低いので、下座から提唱をされたようです。
そのことで、現在の臨済宗の師家(臨済宗で老師と呼べる唯一の資格)は、道場では、1番下座から本尊さん側を向いて提唱します。


明治以前は、現代の人から観て高僧だと思われる禅宗の僧侶を禅師と呼びます ぜんし ではなくて、ぜんじ と濁音で読みます

ただし、現在、亡くなった和尚は、墓や位牌には、戒名の中に、皆禅師の文字が含まれています 修行僧のままなくなった場合は、禅師とは呼ばれていません



禅堂作法も合わせてご参照下さい ⇒ http://e-temple.info/zendosaho.html


出家すべきか、在家のままで修行すべきか

管理人の結論から言えば、在家の方が熱心に修行する人が多いですし、
なぜか、一般在家から僧侶になった人でも、本来の目的を忘れていつの間にか違う方向に行ってしまい、
宗門の中で他の和尚より優位な立場に立てる老師や師家というタイトルを取るために過ごすようになります。

臨済宗などは、師家、師家分上と言って、その資格を取るのは1700則とも言われる公案体系をすべてやり終えないといけないので、10年位は修行年数が必要ですが
(ずっと専門道場に居て師家を目指す人も多いですが、ある程度の年数で道場を降りて、公案の続きを通参と言って、摂心や日常の参禅で終える場合もあります)
一旦師から印可証明をもらいその資格を獲得すると、特に臨済宗の場合は、圧倒的に他の和尚より優位な立場と高収入が得られるし、
一般人からは「老師様」と言って、あたかも悟った人のような尊敬を受けるので、それを目指すようになります。

勿論その為には、並々ならぬ努力が必要ですから、その努力は賞賛すべきですが、釈尊と同じように仏道を体得することからは大きく外れた行為にほかなりません。
曹洞宗には、そのような制度はありませんが、やはり、いつの間にか宗門での地位向上に励むようになったり、あるいは、どこかの寺院の住職で満足するようになります。


「出家したい」という在家の人に向かって、ある和尚が与えた回答が下に引用してあります。
大変しっかりした内容ですので、紹介をしておきます。


在家出家をしたいです。

こんばんは。 
以前よりこちらのサイトにお世話になっておりますゆうでございます。

さて、在家出家はずっと思っていたこともあり、そして長年悩み続けた悪縁とも縁がきれ、最小限の浮世のつながりとなりました。今もっとも心は自分が出家するタイミングなのではないかと思っています。

いっそ本当であれば何もかも捨てて、出家をしたいとは思いますが、まだ子供が幼いために、在家での出家を望んでおります。

私の実家の菩提寺は臨済宗ですが、なぜか小さなころからご縁があるのが真言宗です。臨済宗、真言宗、どちらも素晴らしい宗派と思っております。

真言宗とのご縁をとるか、臨済宗の教えをとるか悩んでおります。

この時点で悩んでいる私などが在家出家する資格があるのかとも思いますが、どちらかを選ぶ手段と在家出家の仕方など教えてください。

仏教

女性/ゆう/40歳代

出家の本質を歩む

私は学生時代死にたくなるほど悩んでただの寺のムスコでしたが菩提心が沸き起こり、本気で出家を願いました。修行道場に身を投じたものの、そこはいじめの巣窟でした。仏道修行とは名ばかり、その実質はお作法をならう程度の事。優劣、能力のできるできない、デキないものが馬鹿にされる世界でした。 
その後、私は矛盾を感じたまま、最終的にその疑問を拭えないままにそこを後にしました。 
帰ってから家族と不和になり、自分の出家世界に求めていたものを全否定しました。 
人間、何かを問題にするその自分の心が無問題にならなければいくらアタマ丸めようが衣来て出家しようが、何十年修行しようが、私は「それは出家ではない」と断言いたします。 
あなたが実際に出家して僧侶の世界に身を投じたとしても、姿かたち、スタイルの上では出家と思われても、精神がまるで出家していない現実を目の当たりにされるでしょう。 
私はこう申し上げたい。 
出家とは、自分の思惑、想念の巣窟からの出家である、と。 
自分ルール、自分意識、自分自分、エゴエゴした人間的な心を離れ得ずして真の出家はあり得ません。宗派問わず良い師匠を探してください。人間、肩書き宗派よりもその僧侶の中身です。 
宗派にこだわりがなければ、そこのお寺は別にかた苦しい宗派がある訳ではありませんが、静岡なので浜松の龍泉寺の井上哲玄老師か、掛川の少林寺、井上貫道老師の坐禅会に参加される事を強くお勧めします。一宗の管長、禅師猊下より、実質的な力を持った真の禅師様です。 
出家の本質は、自己の想念からの出家と申しました。 
その為には悟りを得ている僧侶の下でないと、真に導かれません。 
どういう心こそが❝出家・出離❞といえるのか、それを知らずして形の上で出家してもそれは出家とは言えない自己満足に過ぎないのです。是非、正師の元で学ばれてください。厳しく聞こえるかもしれませんが慈悲ゆえの真実です。
  https://hasunoha.jp/questions/2824